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元治元年10月1日(1864年10月31日)

【京】朝廷、禁裏守衛総督一橋慶喜・老中阿部正外に対し、征長成功までの鎖港猶予、将軍の急速上坂を命ず
【江】幕府、将軍徳川家茂随従者の進発期日を布告

☆京都のお天気:天晴雲収 (『嵯峨実愛日記』)

>老中阿部正外上京2/横浜鎖港問題
【京】元治1年10月1日、朝廷は、参内した禁裏守衛総督一橋慶喜・老中阿部正外に対し、征長までの鎖港猶予、将軍の急速上坂を命じました。(阿部は翌2日京都を出立)

〇一橋慶喜に下された朝命(10月4日に容保に心得のため伝達)のてきとう訳
この程豊後守を以て言上に及び候夷情の儀、委細聞こし召され候。両様一時には出来難く、この度長州征伐も仰せ出され候事故、征伐の方、早々に致すべく至当と思召され候。依って外夷の義は只今何とも御返答仰せ出されず候。

<経緯>
阿部は、9月24日に参内すると、将軍進発遅延を報告するとともに、外国の主張・横浜鎖港の困難さを説明しました(こちら)。さらに、28日には二条関白を訪ねて説得をし、関白から<早々に帰府して将軍進発を督促し、外国の件は長州追討の後に>といわれていました。阿部は10月1日に帰府のために暇乞いの参内をすることになり、その前日の30日、朝廷では、関白以下が参会し、御前会議が行われました。その結果、明1日の阿部の暇乞いの参内につき、外国(夷狄)の件は長州征伐後までは左右の沙汰を猶予すること、将軍が速やかに上坂すべきことを、武家伝奏を通じて伝えることを決めていました。

なお、『京都守護職始末』では、将軍上洛遅延について、二条関白が、阿部老中に、征長の勅・将軍上洛の朝命を出したにもかかわらず一向に消息がないため、不日勅使を東下させて上洛を督促することに決定したと伝えたところ、阿部が死をもって促進させるので取りやめてほしいと懇願したとされています。

参考:『嵯峨実愛日記』一、『朝彦親王日記』一p81-84、「孝明天皇紀」「会津藩庁記録」(綱要DB 元治1年10月1日条  3-4、23-24)
関連■横浜鎖港問題(2)&条約勅許問題

>将軍進発問題
【江】元治1年10月1日、幕府は将軍徳川家茂随従者の進発期日(10月10日頃)を布告しました。

【天狗諸生】」幕府、宍戸藩主松平頼徳(水戸藩主徳川慶篤名代)及び父頼位(前宍戸藩主)の官位を褫奪。(綱要)

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